「Creative Medicine~創造は薬~」のレッスンでは、 お一人お一人の世界観や、バイオグラフィー(人生の背後に流れている法則や魂の意図)にじっくりと向き合っていただいています。
そして、「MY STORY」を書いていただくことによって、その方の魂の使命を見い出すお手伝いをしています。 これまで書いていただいたMY STORYをご紹介していきたいと思います。
來須マキさん
コアメッセージ:いのちあるものの「聲なきこえ」をこころとからだできく。愛をもって自分の周りに小さな平和をたくさん作ろう。その小さな平和を積み重ねると世界に平和が訪れると信じて。

「聲(こえ)なきもののこえをきく」
アロマリラックス ラウラーチェは、 「癒しを通して、ひとりひとりの中に平和の種を育てる場」です。大切にしているのは、 “聲なきこえをきく” という姿勢。 言葉にできない不安や、心や体が静かに発しているサインに耳を傾け、 香り・音・植物・自然の力を使ってやさしく整えていきます。癒されることは、自分を大切にすることにつながり、 その穏やかさは周りの人へ、そして社会へと広がっていく—— ラウラーチェは、そうした小さな平和の循環を生み出すためのサロンです。癒されていく感覚は、自分自身を大切にする感覚へとつながり、やがて周りの人や社会、世界へと優しさの輪が広がっていく。その連鎖こそが、私が願う 「小さな平和の実践」 です.
いのちあるものの「聲なきこえ」をこころとからだできく。愛をもって自分の周りに小さな平和をたくさん作ろう。その小さな平和を積み重ねると世界に平和が訪れると信じて。
「きく」と言いますとたくさんの「きく」があります。
聞く、聴く、訊く、効く、利く。
聞くは物理的に耳から入ってくる音。
聴くは身を入れて聞くということ。
訊くは尋ねるということ。
効くは効果があるということ。
利くは役立つ機能ということ。
このように、「きく」にはいろいろな意味があります。
この中で私が一番大切にしたいのは【聴く】です。耳辺に+目と心がついています。
耳だけではなく、目と心を使ってきく。
相手の発する言葉だけでなく、相手の声のトーン。
相手のしゃべる速さ。
相手の声の大きさ。
相手の表情。
相手の雰囲気。
相手の体調。
相手の状況。
相手の過去。
相手の背負っているもの。などなど。
いわゆる「聲なきこえを聴く」
「聲なきこえを聴く」とは全感覚を使って受け取るということ。そして、「聲なきこえを聴く」ことは、相手を大切にするということだと私は思っています。私は、世界にこの「聲なきこえを聴く」人が増えたなら、相手を大切にする人が増え世界は平和になるのではないかと思っています。
ですから、日々、自分が「聲なきこえを聴く」ことができる人になりたい。
と、いう思いで、仕事をしたりボランティアサロンをしています。きくが平和?飛躍し過ぎない?と思われるかもしれませんね。実は、飛躍してはないのです。
小学校入学までの「きく」
私の人生において、母という存在は大きく、良くも悪くも「私」を語る上でなくてはならない存在です。まずは、その母についてお話ししたいと思います。母は、昭和20年に生まれました。祖父は軍人で、昭和20年は、広島で陸軍学校に勤務しておりました。そして、8月6日を迎え、被爆してしまいます。祖父を心配した祖母は、8月7日、当時0歳だった母を背負い、母の姉、兄2人を連れ、広島市内に祖父を探しに来ます。そして母は入市被爆しました。被爆者という現実は母にとって人生を左右する大きなものだったことは間違いありません。私にとっても同様で、被爆者2世の私がどう生きるかは、私のライフワークにもなっています。
その後、母は、跡継ぎのいなかった親戚の家に養女に出されます。養女に出された先は、厳格なバリバリの県庁マンの祖父、本当はお転婆だけど、子どもは産めなかったけどよき嫁になろうとがんばってる祖母に厳しく育てられました。母には、夢がありました。それはピアニストになること。小さい頃からピアノを習っていて、音楽が大好き。実は東京の音楽大学にも合格していたそうなのですが、厳格な祖父は東京で進学なんて許すわけがなく、渋々広島の短大へ進学したそうです。そこが母のターニングだったのでしょうか?短大を卒業後、母は仕事を転々とし、祖父の紹介の結婚も断り続け、29歳の年にさすがにヤバいと思ったらしく、その時付き合っていた父と結婚に踏み切ろうとします。しかし、この父がまた、祖父とは真反対の人で、しかも母より4つも年下。またまた厳格な祖父が許すわけなく、2人は駆け落ち同然で籍を勝手に入れたらしいのです。世間体を重視する祖父は、いつまでも反対するわけにもいかず、渋々結婚を認めたということでした。
そんな当時にしては破天荒な母は、自分にも周りの人にも厳しい人でした。歯に絹を着せない物言い、ある意味スーパードSのスパルタ。世間体を重要視し、いつも周りからの評価を気にしていました。私も小さい頃から「ご近所さんの目を気にしなさい」「そんなことをしたら、周りからどんな事言われるか考えなさい」と言われ続けました。
また、音楽が大好きだった母。子守歌はいつも母の生歌。部屋にかかっている音楽は童謡。ピアノも3つのころから習い始め、楽典やソルフェージュは自宅で母と一緒に泣きながらやっていました。もちろん勉強も、ビシビシ鍛えられました。今の時代から言うと時代錯誤もいいところなのかもしれませんが、昭和を生きてきた母には、当然のことだったのだと思います。
しかし、破天荒な母から産まれた私が破天荒になるのはごくご自然なことで、練習や学習が嫌で誤魔化したりサボったり。しまいには母に悪態付き、母の逆鱗に触れ、烈火の如く叱られたのは言うまでもありません。
この時期の「きく」は単純にピアノの音を「聞く」だったと思います。母のいうことについても「聞く」だったので叱られることが多かったのではないかと思います。ただ、赤ちゃんの時は母の声を「聴く」だったのかもしれません。赤ちゃんは、言葉の意味は分かりませんし、母親の声のトーンや大きさや表情で判断していたのですから。言葉の意味を覚えていく過程で「聴く」が「聞く」になることもあるのかなと思ったりします。
小学生のころの「きく」
小学生になると私の破天荒は、より輪をかけてパワーアップしました。授業中に先生が怒り出すと、トイレに逃げる。クレヨンでお化粧をしてみる。国語の授業で、ふざけた音読をし、叱られる。などなど。私がパワーアップするにつれ、母もパワーアップしました。力と力のぶつかり合いです。外に出されることもしょっちゅう。4歳下の弟が小学校に上がる頃、少し私には変化がありました。弟は手のかかる子でした。小学校に上がるとそれが顕著に現れ、母はしょっちゅう学校と話し合いをしていました。今でいえばADHDと診断されるのだろうと思います。しかし、私が小学生の頃は発達障害という概念すらない時代でしたので、母は自分のしつけのあり方を責め、悩んでいました。そしてしつけの手を強めました(弱めるとか別の方法考えるとかしなかった母はある意味すごいなとは思いますが)。その結果、弟は吃音が発症…。多分今で言うと二次障害も現れていたのではないかと思います。
そんな母と弟を見ていた私。これまでの破天荒な私は母の前では封印しました。鬼のような形相の母、叱られて泣きわめく弟。を見て「自分は怒られたくない。怒られる人はダメな人なんだ。しっかりしなきゃ」「いい子でいなきゃ。ダメなんだ」と強く強く思いました。それからは、一生懸命母が怒らないように母に褒められるように過ごしていました。判断基準は「母が怒らないように生きる」でした。
4年生になったある日、母は、私を原爆資料館に連れていきました。被爆者だった母は、子どもたちにも原爆について語り継ぐことができるようになってほしいとの思いだったと思います。原爆資料館に連れて行かれた私は、その悲惨さに衝撃を受けました。なんとも言えない恐怖でいっぱいになりました。心からこんなことが起こったらいけないと思いました。私が今でも、核兵器廃絶や自足可能な地球を実現するための活動をしているのは、この資料館の経験が出発点であると思っています。
6年生の時、もう一つ出会ったものがあります。それが吹奏楽でした。通っていた学校に小さな小さな吹奏楽部が出来たのです。それまでは、ピアノで自分の音をきくことをしてきたのですが、吹奏楽をきっかけに自分の音だけではなく、他の人の音もきくということを始めた第一歩でした。
この時期の「きく」は「聞く」と「聴く」がまじりあっていたのではないかと思います。
原爆資料館では、展示物や資料館の蝋人形は声を発しません。だけど強烈に何かを受け取っていました。聲なきこえを「聴いていた」のだと思います。強烈な「聴く」体験を初めてしたのが原爆資料館だったのではないかと思います。
しかし、吹奏楽が楽しいの「きく」は「聞く」だったのだと思います。
中学高校のころの「きく」
地元中学に進学した私は迷わず吹奏楽部に入りました。弱小吹奏楽部でしたが、楽しく一生懸命に練習していました。コンクールで少しでもいい賞が取りたくて必死でした。1年生、2年生の時は全くいい賞が取れずに残念な思いをしましたが、3年生のコンクールでは、念願の金賞を取ることができました。良い仲間にも恵まれ、この時期の友だちは今でもいい友達です。と、同時期に憧れたものがありました。
それが魔女の宅急便のキキのお母さん。おまじないが大好きだったので魔女への憧れはそれまでもなんとなくあったのですが、薬草を自由に扱って’「あんたの薬が1番だよ」と言われるシーンに心が震えキキのお母さんみたいになりなあと憧れました。その影響で、アロマやハーブ、ポプリに興味をもったのもこの時期でした。
高校は吹奏楽部が強い学校を選んで受験し、成績はギリギリでしたがなんとか公立高校に合格しました。この頃になると魔女に憧れた自分をすっかり忘れて吹奏楽に熱中しました。コンクールでいい成績をおさめるために、毎日毎日一生懸命でした。ただ、中学校では、「そこそこ上手」に楽器が吹ける私。でしたが、高校には私くらいの演奏ができる人は山のようにいて、「そこそこ上手」だった私は「あまり上手ではない」私に。勉強の方もギリギリで合格した私は「赤点の女王」なりました。
このころ、自分のことが少しだけ見えてきました。人と感覚が少し違うこと。その感覚のずれを表現できずにいること。
自分の好きなもの、きいている音楽はユニコーン、ジャズ、ポップス。読んでいる本は山田詠美。
なぜか共感してくれる人が少なく、好きなものをカミングアウトして否定されるのが嫌で好きなものを好きと言えずにいたり、反対に好きなもののことをじゃべり出すと話すことに夢中になり、周りが見えなくなったりする自分に気づいたのです。何をしても「嫌われるんじゃないか」「友だちがいなくなるんじゃないか」と不安になり、明るくふるまって、わざとふざける。そして自己嫌悪に陥る。そんな自分が嫌で嫌で仕方なく、どんどん自分の考えや思いを発信することが怖くなりました。
このころの「きく」は、どうだったのでしょう?自分でもよく分からないのですが、自分自身のこえを「きこうとしない」自分がいたのではないかと思います。そして、きこえていない周りのこえに翻弄されている。そんな感じだったのでしょうか?このような自分になったのは、世間体を第一に考える母親との関係が大きく影響していると思います。自分の思いよりまずは周りが自分のことをどう評価しているかどう見ているのかばかり気にしていたのだと思います。気づいたのは40歳も過ぎてからなので、もうどうしようもないのですが。
大学時代からフリーター時代の「きく」
大学は母との約束の通り教育学部の音楽教員養成課程へ。念願だった一人暮らしもできルンルンでした。青春を謳歌しました。たくさん酒も飲みました。バイトも全力。遊びも全力。勉強はそこそこ。音楽は…。落ちこぼれもいいところ(笑)一応トロンボーンを専攻していましたが、なかなか上手にはなれなくて、情けない思いをしました。そして大学から大学院に進み、合計6年という長い間親のお金で人生勉強をさせてもらいました。時々母からは電話がかかってきて、こっぴどく叱られたり、小言を言われたりしましたが、やっと母から解放されたそんな気がしました。同時に家事という面では、今までどんなに家族に支えられてきたのかということも思い知りました。
しかし、ここでも、人間関係には、悩まされました。実力主義の世界。楽器が上手ならどんな振る舞いも許される世界。厳しい上下関係。合奏中下手な演奏をすると容赦ない態度。叩かれたり蹴られたり。自分の育ってきた価値観と大きく違う価値観の人とたくさん出会いました。なんだかその日々の衝撃に疲れてしまい、大好きだった音楽もなんとなく嫌いになり、自分の音も人の音も聴こえなくなっていたと思います。
でも大学を辞めなかった理由は、実家に帰りたくないということと、辞めたところで次の目標もたいしてなかったからなのですが、大学4年の時、ちょっとだけ変化がおきます。大学の先生に現代音楽祭に出演してみないかと誘われたのです。この現代音楽祭で出会ったのが…
笙という楽器です。
天からの光が降り注ぐような音の感覚にびっくりしました。久しぶりに音に魅了されました。しかし、高価な楽器は当時の私には手が出ないのでいつかやってみたいと思っているだけでした。笙に出会ってからは、なんとなく音を聴くということをとりもどしていった気がします。少しずつ自分の楽器の音もきけるようになり、練習も意欲的にできるようになりました。
イライラが頂点に達しかけたころ、笙をやろうと思い立ち、ついに笙を習いに行き始めました。あの音のエネルギーを求めていたのかもしれません。(この笙の先生の元に集まった生徒さんの中にのちに私のアロマやハーブの先生になる方もいらっしゃったのですが、そのお話はまた後…)笙を習う中で、音にもエネルギーが宿っていることや音によって季節、臓器、感情等々の意味があるということを学びました。日本に入ってくる平安時代よりずっと前から、音のエネルギーは自然に溶け込み、私たちの生活にかかせないものだということが分かったのです。今まで音をたくさん聞いてきた私ですが、これまでの音のきき方の浅さに気づかされた時期でした。
このころ、一本の訃報が入りました。大学の後輩の自殺です。後輩は大学を卒業して私と同じように非常勤や臨時採用をしながら吹奏楽部の顧問をしていました。そしてコンクールの結果が思ったように出ないことに悩んでいたということを聞いていました。後輩の自殺の原因がコンクールのことだったのかどうかは分かりませんが、私は、この時をきっかけにコンクールというものを全く受け付けなくなってしまったのです。吹奏楽コンクールで良い結果を出すことは、音楽の教員としての1つの大きな成果となります。自分の中学校高校のころは、このコンクールを1つの目標としてがむしゃらにがんばってきました。
しかし、この訃報をきっかけに音や音楽の本質は上手い下手だけにとどまっていいのだろうか?という疑問が生まれてきたのです。
「音、音楽をきく」という行為を根本的に変えざるを得ない出来事でした。
悶々としながら、就職できず、バイトと掛け持ちしながら、非常勤をやる日々。そんな時 「いのちを大切に 自分の ひとの ものの」という言葉に出会います。非常勤を引き受けた学校の校訓です。
この学校で力を入れて取り組んでいたことは「聴く」ということでした。
相手の目を見て、いい姿勢で、うなずきながら、笑顔で、終わりまで聴く。相手の話を丁寧に言葉の向こう側にある気持ちや考え、背景を想像しながら聴くということでした。聞くではなく聴くで、聴くとは耳と目と心を使うんだよとも教わりました。それが相手を大切にし自分も大切にするという第一歩だと知りました。
私はこの出会いから採用試験に向けて本気で取り組み始め、3年目に何とか採用試験に合格することができました。
「聴く」は、相手を大切にすることと学んだ大切な時間でした。
正式採用から結婚、出産、魔女との再会のころのきく
喜んだのも束の間、正式採用されてから赴任した学校は、なんと、距離を置いていた吹奏楽の盛んな学校。もちろん、吹奏楽部をやってほしいと言われました。らしかも毎年のようにコンクール上位に入る学校。私は迷いました。やるのかやらないのか。やらない選択をすると、かなりの顰蹙(ひんしゅく)を買います。高校大学時代の繋がりも切れてしまうかもしれません。不安でした。
でも私にはやると言うことはできず、やらないという選択をしました。この選択をしたことで、私は小さい頃からの人との繋がりを切らざるを得ませんでした。
そして、初めて母と喧嘩をしました。「吹奏楽をやらなけらばならないくらいなら採用を断る」とまで言い大きな声で言い合いました。母は分かってくれませんでした。完全に決別でした。今まで繋がっていた仲間も母も無くしてしまった孤独ははかりしれないものでした。
音楽と決別した私。かろうじて笙は細々と続けていましたが音楽を聴く気には到底ならず、仕事に没頭していきました。学校に勤めるなかで子どもの声を聴こう人の話を聴こうと必死になっていきました。
就職して3年目、母は癌になりました。乳がんでした。被爆しているから仕方ないと思った面もありました。ステージ2だったので、手術をしたら何とかなるだろうと思っていましたが、悪性度が高く、手術後半年で再発。再発が分かった時には、全身に癌細胞が転移し、手術はできない状況でした。抗がん剤治療もむなしく、発病から2年で他界。最後は、モルヒネで、幻聴、幻覚、妄想など現れ、病院から抜け出して勝手に家に帰ったり、財布が取られたとさわいだり。。。。最後は、意識がなくなり、最後に話した言葉も忘れてしまう位でした。悲しい出来事ではありましたが、正直母が亡くなったとき、これでやっと母からの束縛から解放されたと思いました。
しかしそれは解放でも何でもなく、母からキチンと自立しないまま母を亡くしたということ。母の聲はきくことができないまま、母とお別れしてしまったということなのでした。
母という重しがなくなった私は、気ままに自由に仕事だけこなし、なんとなく友だちの紹介で結婚しました。夫は田舎育ちの素朴な人です。この人となら老後が楽しいだろうと思って結婚に踏み切りました。初めて夫の実家を訪ねたとき、今時携帯が圏外になったり隣の家まで徒歩5分だったりするその田舎具合にびっくりしましたが、違和感はなく、風の音、土の香り、草の色、全てが懐かしく、柔らかく自分を包んでくれているような気になりました。まるでトトロの世界に入り込んだみたいでした。
母の大きさを思い知ったのが1人目を出産したときでした。誰も頼る人がいなかったのです。出産前ベビーグッズを買いに行くのも1人。検診も1人。もちろん夫は協力的でしたが、楽しそうに母娘で買い物をしている光景は、羨ましく思えました。ものを一つ買うにもなかなか決断できない自分に母から自立できないまま母を失ったことを思い知らされました。そして自分の中で母を追いかけ、母に褒められたいがために生きてきた自分を実感したのです。
ただ、生まれてきた娘は本当に可愛くて、娘の聲を聴こうと必死でした。でも、赤ちゃんは自分の気持ちを話してはくれません。必死に聴こうとするのですが、訳も分からず泣いてばかりいる娘を目の前にして、自分の力のなさを情けなく思うことしかできませんでした。このころに出会ったのが「ベビーマッサージ」出産した病院で教室が開かれており、参加したのがきっかけでした。ベビーマッサージをしている間、娘はご機嫌でした。そして私もとても心地いい。手のひらで娘の呼吸や肌の感触、体温を感じ、言葉はなくても通じ合っている感じがしました。
手のひらで、娘の聲を聴くことができたと思いました。
聴くということは、耳からだけではなく、5感すべてで行うものだとこのとき初めて体験しました。
この体験は、自分の自信につながりました。娘の聲を聴くことは、娘にとっても幸せだったと思うのですが、それ以上に自分にも多幸感をもたらしました。人の幸せを願うという行為は自分も幸せにするということが分かったのでした。
その後2人目を出産し、3人目の妊娠のとき、自分ではどうしょうもないことが起こりました。悪阻です。
薬も使えない、でも寝ているわけにもいかない。どうしたらよいのか、考えて考えて。あ、そういえば。と思いアロマセラピーの門を叩きました。笙を一緒に習っていた仲間でアロマの先生に速攻で相談。
ここが私のアロマテラピーのスタートです。
スタートしてからは学ぶことが楽しくて楽しくて!ただ香が良いだけでなく、香りの科学や作用、意味などなど、教科書に載っていることも楽しくて仕方なかったけど、先生がお話ししてくださる教科書以外の植物や宇宙の話。観察することの大切さや、香りを観るということ、香りの意味やエネルギーなどなど刺激的でどこか懐かしくて。夢中になりました。香りを観るとか観ることで聴くとか五感を使って感じ取ることで生活が豊かになりました。
子育てにもとても役立ちました。こうして第3子を出産する直前、ナードジャパンアロマアドバイザーの資格をいただくことができました。その後、職場復帰しますが、まだまだ学びたくて気がついたらインストラクター、セラピスト、日本産精油、ハーブも学んでいました。こうして、アロマやハーブは私の生活にはなくてはならないものになりました。
小学生のころ憧れていたキキのお母さんに一歩近づいた気がしました。だれに褒められなくてもいい、ただただ好きで没頭することができるものが初めてできた気がしました。アロマやハーブを通して母から精神的に分離することができた。そう感じました。仕事と育児で忙しくても、どんなに眠たくてもアロマやハーブを学ぶのは楽しくて楽して仕方がありませんでした。
アロマとハーブの向こう側に…。聲なきこえを聴く
アロマやハーブと出会って、しばらくして、仕事復帰しました。毎日、仕事育児家事と忙しくしていました。学んだアロマやハーブの効能を利用しながら、一生懸命でした。そして1年後転勤になります。
転勤した学校で出会ったのが「被爆樹木」でした。被爆樹木とは、爆心地から2キロ圏内で被爆したにもかかわらず、現在も生き続けている樹木のことで現在広島市には160本程の樹木が認定されています。
この被爆樹木との出会いを通して、被爆樹木からメッセージを受け取り、人生を変えていった被爆者の方々に出会いました。
ある被爆者の方は、自分自身は被爆し、片足を失い、戦争で婚約者を失い、絶望の中にいらっしゃいました。死んでしまいたいと自暴自棄になっていた時、被爆樹木からの「死んではいけないよ。生きるんだよ」というメッセージを受け取られたそうです。生きる希望を見出し、自身も被爆し健康も幸せも奪われているにもかかわらず、自分が被害を被ったという恨みを越えて「次世代のため」「世界の人々のため」に自分の経験を通して、核兵器の悲惨さ、虚しさを訴え続けられました。被爆樹木の愛に触れ、世界の人々へ愛を届け続けた方でした。
愛を発信し続けている被爆者の方々はかがやいていらっしゃいました。
被爆樹木同様、植物は言葉を使ってお話をしてくれるわけではありません。でも、私たちは、植物のことを知っていると思っている節がないでしょうか?植物の名前や生態、効能などの知識を知ることで植物のことを全て知っているつもりになっているかもしれません。
160本の被爆樹木にユーカリグロブロスが1本だけあります。アロマやハーブをしている人にとっては知らない人はいない樹木です。私は被爆樹木ツアーをするときできるだけこのユーカリに会ってもらうようにしています。なぜかというとユーカリの香りや効能を越えたここに唯一の存在として生きているユーカリから香りや効能を越えた「聲なきこえを聴いて」ほしいと思うからです。実際ワークショップの参加者からは、ユーカリからその方が必要と思われるメッセージを受け取ったというこえがたくさん届いています。ある人は「自由になること」ある人は「包まれている感じ」ある人は「厳しく暖かく叱られている」被爆者の方々のように「聲なきこえ」を聴くことで、被爆樹木の愛を受け取っていらっしゃいました。愛を受け取った参加者には、これから自分はどう生きるかというヒントをもらえたという方もいらっしゃいました。ユーカリグロブルスには、「これからどう生きるかのヒントをくれる」という効能も「愛を発信する」という性質もありませんが、「聲なきこえを聴く」ことで自分に一番マッチした効能(愛)を受け取ることができているのです。ツアーをするたび、本当に植物のことを知りたいのなら植物の「聲なきこえを聴く」ことも大切なことなのではないかと思わせられます。
私自身、迷ったり、落ち込んだり、悲しいことがあったりしたときは、被爆樹木に会いに行きます。被爆樹木は、優しく暖かく、時には厳しく私を包み込んでくれます。明日からもがんばろうと思わせてくれます。被爆樹木のツアーを通して、被爆樹木の「聲なきこえを聴き」包容力とメッセージ、愛に触れていただければと思っています。
アロマやハーブも植物。効能を期待して使ったり、香りを楽しんだりすることも素晴らしいのですが、実は効能だけではないものをいつも私たちに「聲なきこえで」語りかけてくれているかもしれません。その聲を五感全てを使って聴く。立ち振る舞い、香りや色、味。トリートメントを通して癒しや体が緩んでいくこと。私は被爆樹木に出会ってアロマやハーブに対する気持ちも変わりました。アロマやハーブの「聲なきこえを聴く」セラピストになりたいと思うようになりました。そして「聲なきこえ」を届けるセラピストになりたいと思いました。
以前、トリートメントにいらっしゃった方は、特に不調を訴えられることはありませんでしたが、目の奥が非常に暗く、無理して笑っていらっしゃる印象がありました。言葉数も少なく、体も硬く冷えていらっしゃいました。特に何があったのか聴くということはしませんでしたが、とにかく優しく包むように温まるようにとトリートメントさせていただきました。ハーブティも心が温まるようなものをチョイスし、トリートメントオイルも難しいことは言わず、いくつかの精油から直感で選んでいただきました。トリートメントを何回か受けられた後に「実は、会社帰りに友だちの家に寄って帰る感覚でトリートメントを受けた。受け始めたころは、仕事で濡れ衣を着せられ、言葉にできないくらい悔しくて、悲しくて。でも、トリートメントを受けていると、だんだんと心が緩み、笑顔が出てきた。愚痴を聴いてもらっている訳でもなく、解決策を提示されている訳でもないけど。ちょっとだけ明日も会社に行けるかもって思えた」と言ってくださいました。その方は何回かトリートメントに通ううちに、少しずつ元気を取り戻され、現在は、仕事でも趣味でも活躍されています。体の硬さや冷えは、心の苦しさの「聲なきこえ」だったのだと思います。肩こりや冷えに対するアプローチだけでなく、心がほぐれているようにハーブとアロマを繋げたことでお客様は自分の聲なきこえを聴けたのではないかと嬉しく思いました。
音に還る 私と癒しと平和
後輩の訃報から遠ざかっていた音楽。被爆樹木に出会いアロマやハーブで人を癒す喜びを知ってしばらくして、無性に音が恋しくなる時期がありました。その時SNSで出会った「アルケミークリスタルボウル」水晶でできたボウル型の楽器で倍音を豊富に鳴らすことができる不思議な楽器でした。「この楽器が習いたい」直感で牧野持侑氏の門を叩き、レッスンを受けに行きました。そこで出会ったのが「倍音浴」です。
倍音とは、倍音とは、ひとつの音が鳴ったときに同時に響く整数倍の周波数をもつ音のこと。私たちが「心地よい響き」と感じるハーモニーの正体であり、自然界の音や人の声にも含まれています。
倍音浴とは「倍音」に身をゆだね、音の響きを全身で浴びる体験のことです。 「音を聴く」というよりも「音に包まれる」「音に浸かる」という感覚に近く、深いリラクゼーションや心身の調和をもたらすといわれています。サウンドヒーリングとも呼ばれていますが、まだまだ日本では広まっていません。
最初はこの「倍音浴」を提供することができたら、すてきだなという軽い気持ちでしたが学べば学ぶほど、今まで私がやってきた「人を癒すこと」と「世界の平和を創ること」との深いつながりが見えてきました。私の経験したことの全てはつながっていると今は感じています。
それは、「癒しは平和につながる」ということです。日々の暮らしの中で、誰もが言葉にできない疲れや不安を抱えています。私は、アロマ・ハーブ・サウンドヒーリングに携わる中で、“人が本来の自分に戻る瞬間” に立ち合うたび、そこに小さな平和の光を見るような気がしてきました。癒すということは、 痛みを消すことではなく、 痛みの奥にある「いのちの尊さ」を思い出すことです。人の心や体を癒すとき、 私たちは同時に、その人の中の「恐れ」や「分断」をやわらげています。 恐れがやわらぐと、人は他者を受け入れられるようになり、 受け入れが広がると、世界に平和の波が生まれます。だから、癒しは個人のためだけでなく、 人と人を結び、社会を静かに変えていく力を持っています。医療、福祉、セラピー、音楽、祈り―― どんな形であれ「癒し」に関わる仕事は、 心の中に平和の種をまく行為です。世界の平和は、国と国の間の問題ではなく、 人と人、心と心の間に生まれるもの。癒す仕事をする人は、 目に見えないところで、 平和をつくり続けているのです。
だからこそ、ラウラ-チェでは「聲なきこえをきく」ことを大切にします。話したい人は話し、静かに過ごしたい人は静かに過ごす。どんな状態のあなたも、そのままで安心できる場所でありたい。そして、癒しが誰にでも届くものということも大切にしています。敷居を低くし、気軽に立ち寄ることができる、くらしの中にちょっと付け足せる知恵を伝えるそのような場所でありたいと思っています。
ラウラ-チェ大切にしていること4つ 全力で、あなたの內側にある「やさしさ」と「平和」を取り戻す時間を、心を込めてお手伝いさせていただきます。
ゆっくり呼吸できる「安心の場」であること
言葉にならない思いや小さなサインに寄り添うこと
癒しを特別なものではなく、誰にでも開かれたものにすること
心が整うことが“平和の種”となって広がっていくと信じていること
ラウラ-チェオリジナルメニューの紹介
静薫響(せいくんきょう) アルケミークリスタルボウルとマキノ式癒しのチャイムによるサウンドバスに、 プラナロム精油・yuica精油の芳香浴を重ねた、 音と香りで心身をやさしく包む癒しの時間です。
私たちの五感の中で、 聴覚と嗅覚は、言葉を介さず、最も深く心に届く感覚だと言われています。 響きは身体の奥まで振動として伝わり、 香りは脳の感情や記憶を司る部分に、直接そっと触れていきます。
静薫響では、 透明感のある倍音を奏でるクリスタルボウルの音と、 自然素材で作られたチャイムの揺らぎ、 そして植物のいのちそのものとも言える精油の香りが重なり合い、 呼吸が深まり、思考が静まり、本来の自分に還っていく感覚を育みます。
心が整うことは、 自分を大切にすることにつながり、 やがて周囲へのやさしさや、平和へのまなざしへと広がっていきます。
アルケミークリスタルボウルと 癒しのチャイム、 そして植物のいのちから生まれた 精油の香りによる、 音と香りの癒しの時間。何かを頑張らなくてもいい。 ただ、身をゆだねるだけで、 本来の自分に、 静かに還っていきます。
心が整うことは、 自分を大切にすること。 そのやさしさは、 まわりへ、 そして世界へと 静かに広がっていきます。
静薫響。
しずかに薫り
やさしく響く。

