こちらのブログは流れる生命、流れる色と形①②の続きです。参考に特に②も読まれて読んでいただくと良いです。
流れる生命、流れる色と形① – ハーバルメディスン|Herbal Medicineでは、生命と対極にあるであろう機械論のお話をしました。そして意識的にならないと私たちも機械論的なものの見方に捉えられていることも多く物質性に埋没してしまいやすい世の中であること。生み出されるプロセスを大事にする感覚を育むことが大切であることをお伝えしました。
流れる生命、流れる色と形② – ハーバルメディスン|Herbal Medicineでは、形は動きが先にあって生み出されるもの。その形を動かし自分の中に生まれるものを感じることができて、初めてその本質的な力(秘密・真理・理念)を知ることができることをお伝えしました。
「色」や「形」にも命が宿っています。形に命が宿っているとは?縄文土器から感じたことがあるので、それを綴っています。
内容:
- 心の根源は形
- 縄文時代に私という意識はあったのか?
- 縄文土器は命の形
心の根源は形
フォルメンの練習をする中で、ある本にこんなことが書かれていて、衝撃をうけました。
「形」とは何かということを考えるうえで一番必要な認識は、そもそも私たちの心の働きというのは、遡っていくと、無意識の中にある「形」と出会うところまでいくのだ、ということです。
この考え方はシュタイナーの考えだけではなく、ユングとかフロイトといった深層心理学者の考えでもあります。
無意識の中にある「形」が私たちの心の働きの出発点にある、というのです。
シュタイナー学校のフォルメン線描 イザラ書房
高橋巌 H・R・ニーダーホイザーより
「形」が私たちの心の働きの出発点とはどういう意味だろう?そんな問いを持ちながら過ごしておりました。
ふと、ネットサーフィンで見かけた縄文時代の火焔式土器が目に入りました。文様がスパイラルや波型でフォルメンで描いているものと同じことに驚きました。
火焔式土器は燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器のことを指します。約5000年前の縄文時代中期の文化を象徴する代表的な土器です。生命が湧き立つような、そんな印象を火焔式土器から受け、縄文時代のことを考察してみることにしました。
火焔型土器 wikipediaより
縄文時代に私という意識はあったのか?
縄文時代は約1万6000年前頃から始まりました。その前は旧石器時代です。縄文人は、土器を焼き使い始めた人々です。様々な土偶も印象的ですよね。
でもこの形、日常で実用的には使いずらいですよね。現代の私たちから見ると、なんのために土器を作ったのか?どのように使っていたのか?謎です。
これが弥生時代に入ると、土器の文様は無いか、あっても簡素で実用的で用途別の土器がつくられていったようです。縄文の炎のように生命が湧き立っている土器がここで静止してしまったように感じます。
Wikipediaより 弥生式土器
最近は縄文中期には原初的な農耕が始まったという説もあるようですが、弥生時代に本格的な稲作、中央集権化が進んでいきます。
縄文時代から弥生時代、その時代にどんな人間の意識の変化があったのでしょうか。
『神々の沈黙』の著書ジュリアン・ジェインズは二分心という説を唱えていて、遠い昔(紀元前2000年紀以前)、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていたといいます。
今の人間のように私という意識がなく、心の中に浮かんできたことは神の声でそれに従って生きていたといいます。
人間が今のような「自意識」を獲得したのはわずか約3000年~4000年前だということです。日本でいうと縄文時代の後期にあたります。
縄文時代を想像してみます。縄文時代は1万6000年前から始まり約2800年前までですが狩猟採集を中心にしていた時代です。周りには当然ながら自然しかありませんでした。
例えば、赤ちゃんがこの世に生を受け生まれてきたとき、まだその生まれたばかりの状態では、どこからどこまでが自分であるかの認識ができていません。宇宙空間にただ漂っているようなものです。おくるみに包まれて、足や手をしゃぶり、少しずつ自分の境界に目覚めていきます。
縄文時代も、宇宙空間のように感じるかもしれません。ただただ雄大な自然に囲まれて、夜には真っ暗闇で、たくさんの星々が空をおおう。
そんな空間の中で、縄文人は自然と深くつながり、今の私たちの意識に比べて自分と他人の境界や、自然との境界さえあいまいで、自然の中にまどろんだ意識状態だったのかもしれません。(土屋の想像)
そして日常は生と死、自然にありありと向き合うこと。大地から命が生まれ、大地に還る。火焔式土器は大地である土をこね、大地から生まれ出る命を表現していたと想像することもできます。
手で土をこねる。徐々に触覚などが刺激され、私という存在に気づきながら弥生時代につながっていったのでしょうか。
縄文土器は命そのものの形
縄文時代の言葉や文字については諸説あり、よくわかりませんが、共通の単語的なものがあったり、原初的な文字である記号的なものがあったのかもしれません。
第1回 記号文化としての縄文土器 – 縄文解読(縄文記号の世界)
現代の私たちは言葉や文字についての認識があります。自分の心の中で思ったことは当然自分の思いであるとわかっているし、心の中で言葉を用い思考をめぐらすことができます。
言語や文字があいまいだと、思考もしずらいことが想像できます。
例えば「犬」という対象を、このブログを読んでいる人なら誰もが頭の中で想起できます。言葉の響き、漢字、カタカナ、過去に触れた、見た記憶のすべてを使ってイヌを色濃く頭の中で想像できているはずです。
言葉や文字、私という認識があいまいなとき、何か発したものは、頭の中で形としては保持されているだろうけれど、そこから思考が展開しずらいかもしれません。
そういう今よりもまどろんだ意識の中、火焔式土器は生まれたのかもしれません。
言葉が生れる前、人は対象物の印象や特徴を形で捉え、それが無意識領域に保存されていったはずです。
心の根源は形とつながりました。人の意識の最も根源的なもの、それは言葉ではなく「形」なのです。
縄文人は自我が確立されていない分、無意識領域から浮かんでくる元型をそのまんま表現できたのではないかと思います。
様々な土偶も、現代の私たちの意識から見ると、ちょっと不思議な宇宙人のように見えるけれども、男性、女性を象徴する元型や、蝙蝠、蛇、イノシシなどの動物たちの元型がそこに表現されているのではないかと思います。
こんな土器を創りたいとか、日常に活かしたいというようなエゴ的な欲求は持ちえない時代ではないかと思います。無意識から浮かび上がってくる形・元型・命をただ湧き立つままに形にしているのかもしれません。
きっと、植物、動物、人間の流れるような生命そのものが私たちよりももっと色濃く感じられていたのだと思います。
私たちは縄文人より言葉を用い、イヌという存在を色濃く認識していると伝えましたが、それは「止まった形」で色濃く認識しているということです。
縄文人は、まどろみの中で、同じイヌという存在を流れる生命として私たちより生き生きと色濃く認識していたのではないでしょうか。
縄文土器は本質的な命そのものの形だと感じます。
つづく・・・
wikipediaより 縄文のビーナス
次回は、もう少し元型についてや、植物と形について掘り下げてみたいと思います。
「植物の色・形・ふるまいには意味がある。植物を対話するように観察すれば、精妙な感性や本質を観る目を養う。植物、人間、宇宙のつながりを知る古からの学びや植物との共鳴を通じ、自分と自然の叡智に触れる。」
こちらはHerbal Medicineのコンセプトですが、「流れる生命、流れる色と形」を通して、こちらの意味が伝わると幸いです。
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