思考する、考えることは大切なことである。
ただ、現代の私たちが思考する、考えるといった場合、大きな偏見があるかもしれない。
考えることは良くないという偏見。
例えば、「考えるより、感じろ」という言葉や、五感を使い、感受性を高めることの方が大切で、それこそが直感や高次の意識へと高められると思っていないだろうか?
また、思考するということは、しばしば冷たい感覚で、感じるということは熱を帯び、美を感じ、高揚感を感じる良いことと思われている。
確かに、合理的な思考、日常的な思考で頭がいっぱいの状態の時には、考えるより、感じるということが役に立つことが多い。
思考することの大切さ
シュタイナーは思考することの大切さを説く。
「高次の世界とかかわる純粋で、水晶のように透明な思考内容が呼び起こす、熱さ、美、高揚感に比較できるような感情や感激など、存在しない。
最高の感情は、「おのずと」現れてくる感情なのではなく、精力的な思考作業の中で獲得される感情なのである。」(神智学 ルドルフシュタイナーより)
最高の感情とは、反射的に外の刺激を受け取って感じるような感情とは違う。
それは直観と言ってもよいと思うし、自然の秩序に触れたときの自然への畏敬の念と言ってもよいかもしれない。
本当の直観とは水晶のように透明な思考作業をした先にあるものである。
2種類の思考
思考には2種類の思考がある。有用か、否かだけを問題にする合理的な「日常思考」と、道徳的な認識、直観、霊的なものとつながる「高次思考」。
多くの人が普段使っているのは、日常思考。
日常思考で頭がいっぱいになっている場合は、感じるということや五感を使うのは、日常思考から開放され良いといえる。
シュタイナーが述べている思考は高次思考についてである。
高次思考することなく、直感を得られているという状態は、どこかアンバランスさを持っているかもしれない。
それは、現実からの逃避的な状態、グランディングに欠けている状態であったり、
客観的な視点に欠けていたり、ともすれば妄想的、投影的であったり、体調を崩していたり、社会の中で役割を果たすことが難しかったり、日常を軽視している場合があるかもしれない。
多分、その状態にある人は、直感が得られていること、霊的な感覚があること、不思議な体験に触れられていることは、とても良い体験と思っていて、そのアンバランスさに気づけてない状態かもしれない。
植物観察と思考すること
日常の中で、高次思考をする必要がある。
一つの植物を2時間半かけて観察していく四大元素と植物観察は、考えるように見る、観るように考えるゲーテ・シュタイナー的植物観察を土台にしている。
その植物がもつ本質的な力は、ただ香りを嗅いだり、ぱっと見の印象から得られるものとは違い、観察し、思考することでその真理を植物によって教えられる。
まず、一つの植物をスケッチすることから始める。
スケッチするという行為は、その植物をじっくりと時間をかけて構造をしっかりと「観る」行為である。
まず、自分の思い込みではなく、物質的に現にどうなっているのか、構造をしっかりと捉えるのは大事なプロセスである。
見るだけでなく、スケッチすることで、初めて気づくことがある。
しっかりと構造を把握したのちに、植物観察の言語を使い、植物を観察していく。
植物観察の言語とは、どのように、四大元素が表現されているか、どのように惑星が作用しているのか、硫黄、塩、水銀の原理というような、自分の好きとか嫌いとか、個人的な感情を超えたところにある、観察を行う。
そして、最も大切なのは、植物に語らせるということ。
「人は事物をして誘い出して語らせるのでなくてはならない。人は自らの思考をはたらかせなければならない。それによって人の内面は事物のイデアによって満たされる。
事物についてよく考えるためには、事物の深みに分け入り、その中で生き、そして活動するものをそこから引き出そうとするのでなくてはならない。」(百合と薔薇 丹羽敏雄著 より)
まず構造をしっかりと観察し、そのうえで、形、色、ジェスチャーを象徴的に見る。
あるべき形、あるべき姿をしているという真理に触れる。
その花の色の中に、光、意味を見出す。
観察をし、思考をしながら、統合され、植物の言葉が聞こえるようになる。
植物観察は、高次思考を行いながら、植物の中に流れる自然の秩序へとつながる、安定的に霊的感覚を育む最も優れた方法だと私は考える。